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インターネット版 《サンサーラ》

SamSara

中途半端な事業の行く末


某団体の事業、今、昔

 決して批判の意味で例を挙げるのではないことを断っておく。21世紀協会が事業をすすめているフィリピン、ミンドロ島事業地域でもかって日本の某NGOによる農業指導を中心とした援助事業が行われていた。対象は少数先住民族ではなく、一般フィリピン人の農家で、当時3ヘクタールあまりの農地を実習地として、最新の機械と技術を導入した農業指導が行われた。農業を学ぶ若者の多くが日本に研修に行く機会にも恵まれた。成果はすばらしいものであった。多くの若者が新しい技術を学び、農業後進地域の現地にも未来が開けたかに見えた。そして、数年で事業は幕を閉じた。

 問題は10年あまりの歳月が過ぎた今、どれだけ当時の事業が地域の発展に貢献しているか、である。もし、本当に地域に根付いた事業であったなら、いまでも当時技術を習得した研修員を中心に活動が継続されているはずである。残念ながら、答えは "no" である。今でも名前だけは残っている。しかし、現実には日本人指導者の帰国と同時に、事業は泡のように消えてしまった。たしかに研修の機会を得た人には意味のある事業であったかもしれない。しかし、「地域全体の発展」「地域に根付いた事業」という観点からすれば非常に効果の低いものであったというほかない。

投資先は「ヒト」

 別の例を挙げよう。ミンドロ島ではキリスト教の修道会などが各種の少数民族援助事業を行っている。どれもすばらしい構想のもとに立ち上げられたものばかりである。しかし、問題はどれも長続きしないことだ。資金難もあるにはあるが、担当者や責任者が次々と入れ替わるため事業の進め方に一貫性がない上、中断と再開を繰り返す有様である。農業指導のために購入された機械はうち捨てられ、さび付き、豊作だった農地は草ぼうぼうになる。

 これは肝に銘じなければならない。「数字で結果を出す」式の事業は得てして大きな誤ちをおかしやすい。目に見える成果と本当の成果の間には大きなタイムラグがあることを忘れがちだからだ。援助の対象は「ヒト」であり、「モノ」ではない。つまり教育には非常に長い時間が必要であるということだ。

世代にまたがる努力

 我々の援助の受益者であるマンニャン族に目を移そう。飢えに瀕するマンニャンにとって農業技術の修得は死活問題である。しかし、農業を学ぶということは彼らの文化体系、生活スタイル全てにかかわることであり、想像以上の忍耐と努力、そして時間が必要である。そのことを忘れるととんでもないことになる。たしかに過去数年間の農業指導で収穫高は確実に増えている。しかし、彼らにとって水稲栽培ははじめての経験なのだ。日本が1500年以上もの間繰り返し繰り返し、そして改良に改良を重ねていったことを考えれば容易にその大変さが推測できるというものだ。ましてや彼らのほとんどが、字を読むこともできず、田植えから収穫までの日数を数えることすらできないのだ。一つの技術移転にはパラダイム・シフト、すなわち文化面、生活面、思考傾斜など全ての面での変化を必要とするが、これは大変なことである。中途半端に事業の終結宣言をすると、ほとんどの場合もとの黙阿弥と化してしまう。さらに中途半端な事業は、一度その変化の結果をみているだけに、受益者の間で努力することなしに結果を得ようとする安易なマテリアリズムをはびこらせる危険もある。例えば、使い方もわからない耕耘機を欲しがる等。

 また学校に通う子供達のことを考えてみよう。推定3万人とも5万人ともいわれるミンドロ島に住むマンニャン族の中で、学校に通える子供達はほんのわずかであり、21世紀協会の奨学生達は、全体の中の一握りに過ぎない。わずか20名余りの生徒に学業を終えさせるためだけでも、数年以上の歳月が必要である。マンニャンの子供達全てが学校にいけるようになるまで一体どれだけの時間と努力が必要であるかは想像を絶する。

 ここでは援助を悲観的にとらえようというのでは決してない。援助の対象は、「モノ」ではなく「ヒト」であるべきで、次世代までを見渡す時間と努力が必要であることを強調しているのである。そしてまた、「ヒト」への投資がもっとも確実な投資であることも強調しておこう。事業地のひとつカラミンタオ村では、ほとんどの村人が「読み書き」できる。20年ほど前にある修道会が数年にわたって徹底して識字教育を行ったからだ。これは村人の誇りであり、教育への関心はとりわけ強い。「読み書き」できることの大切さとすばらしさを体験から知っているからだ。そして彼らの子供達の多くが、現在21世紀協会の奨学生である。他の村とは対照的にこの村では子供を手放してでも教育を受けさせたがる。この意識の違いは大きい。親の世代の努力が、子の世代に伝えられ、今実りはじめているのだ。

貸し手の責任

 金融の世界では今日本でも貸し手のモラルが問われている。借り手の立場をよく考えず、無制限に貸したことが、不良債権の一端となっているからである。世界でもアジアをはじめとする経済危機を経験し、同じことが議論されている。世銀やIMFでも債権者と債務者間のコミュニケーションをもっと活発にしなければならないという発言が聞かれるようになった。債権者は債務者の経済的状況だけではなく、政治的、文化的総合的理解に努めるべきである、あるいは、債権者は債務者の事業を監督し、危機の場合にはその「痛み」も共有すべきである、など最近の方向転換は著しい。結論をいえば、債権者あるいは援助側は、債務者あるいは受益者の包括的理解に努め、事業により積極的に介入し、最後まで責任を負うべきである、といっているのである。中途半端な調査に基づく中途半端な融資、あるいは事業は非常に危険だからである。

 それは、草の根レベルの我々NGOの活動とて同じである。援助する側の事情が少々変わったからと言って、あるいは、資金繰りが苦しいからと言って、援助を投げ出せば、最初から援助をしなかったよりも悪い結果をもたらすことを我々は心にとどめておかなければならない。(川嶌寛之)

《サンサーラ》 23号 1999.12.10初掲

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