(NPO)21世紀協会 理事長
池田晶子

マクロからミクロへ 〜人間性の回復をめざして
Toward A Human-Scale Tensegrity Society


要約
tensigrity model21世紀の世界が向かう方向として、ここにヒューマンスケールのテンセグリティー社会なるものを提唱する。これはすなわち、人間の身の丈に合った多元的な価値観を包容しつつバランスを保つ多極社会である。20世紀において人類に快適な生活を提供した大量生産、大規模開発、巨大官僚機構、強大な軍事力、一極集中のグローバル経済はその代償として地球環境の破壊をもたらし、個々の人間を巨大な組織の一部品におとしめた。ヒューマンスケールソサイエティーの実現は人類と地球の尊厳の回復運動でもある。実際に合理性を追求してみると、小さな設備をネットワークでつなぐことで巨大な設備と同等の力を実現できることもわかってきた。日本は世界に先駆けて新しい社会の秩序を提示することで世界にリーダーシップを発揮したい。



本文
2015年はあたかも国連が設定したミレニアム開発目標(Millennium Development Goals: MDGs)の達成目標年である。周知の通り、MDGsとは、2000年9月ニューヨークで開催された国連ミレニアム・サミットに参加した147の国家元首を含む189の加盟国が、21世紀の国際社会の目標として採択したミレニアム宣言(平和と安全、開発と貧困、環境、人権とグッド・ガバナンス(良き統治)などを課題として掲げ、21世紀の国連の役割に関する明確な方向性を提示したもの)と1990年代に開催された主要な国際会議やサミットで採択された国際開発目標を統合し、一つの共通の枠組みとしてまとめたものである。それは、たとえば、極度の貧困と飢餓の撲滅、普遍的初等教育の達成、乳幼児死亡率の削減、持続可能な環境の実現などをあげ、数値を設定して2015年の達成目標を立てている 。
その2015年に、かつてミレニアム・サミットをホストした日本はどういう国になっているのだろうか。いや、どういう国をめざすべきなのだろうか。


T.ヒューマンスケールソサイエティー

生産分野の変容 〜脱分業
まず考察したいのは、個々の人間の手に余るほど巨大化してしまった生産形態に代表される現代社会である。

もともと巨大生産システムは、あちこちでばらばらにものを作るよりもみんなでまとまって一つの目標の実現に努力することに効率を求めたものであった。生産は小さな工場から大きなラインに集約され、そこで働く人間は自分が何を作っているのかもわからないままただ定められた作業をこなせば立派な製品ができあがっていた。長い学習と経験を必要としたスキル形成は不要となった。投資も大きかったが産出も大きかった。分業は生産ラインに限らず、あらゆる分野にわたって広がった。大量生産による豊かな消費社会を実現したのは分業や、専門化、アウトソーシングだったはずだ。

ところが、その生産ラインが今変化を遂げようとしている。単純な分業よりも1人で機械を全部組み立てる方が時間も節約でき、完成品のできも良く、経費も節約できるという。いわゆるラインからセルへの転換だ 。従来の常識では考えられなかったことだが、求められる製品の質が変わってきたこと 、そして、労働者の意欲を引き出したことがその成功の根底にある。生産量やモデルチェンジなど変化に柔軟に対応できるため、効率よく時代の流れに乗ることができる。

みんなで渡れば怖くない?〜分業のネットワーク化
マイクロ水力発電 という発想も同様だ。巨大なダムや原発による発電ではなく、家の屋根、水田の灌漑用水路の段差等を利用して必要な電力をまかない、更に売電により余った電力を電力会社に売る。川崎市水道局では2003年9月に日本自然エネルギー株式会社 と契約を締結し、この未利用エネルギーによる発電に取り組んでいる。

SETI@home は系外生命を探すプログラムだ。プエルトリコのアレシボ電波望遠鏡が宇宙空間から受信する膨大な量の電波信号データを解析するのだが、そのユニークさは、インターネット上で結ばれた世界中のPCユーザーが分担して解析を進めていることにある。このグリッドコンピューティング技術によって、日々の解析作業の行われたデータは、米国カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)で分析されている。従来なら巨大なスーパーコンピュータを使って何年もかけて計算してきたものを世界中のPCを結んで行おうというするもので、参加している個人のコンピュータ・オーナーは一つの大きな科学プロジェクトを担っていると満足度も高い。同様の試みは膨大なデータと組み合わせから新薬の可能性を探るプログラムでも行われている。

日本の農業は大規模生産からはもっとも立ち後れた分野だった。それは日本の歴史的地理的制約によるものだったが、アメリカでは、広大な農地で石油由来の化学肥料を使い、機械を使って大量の農産物を生産してきた。高投入高産出のお手本だった。しかし、長年の化学肥料依存により、地力が劣化し、草木一本生えない広大な土地が出現するに至った。それは石油に依存する農業の限界だった。戦後50年を経て有機農業が見直されてきているのはこうした事情も大きく手伝っている。従来小規模の有機農業では地球人口は養えないと考えられてきたが 、最近のデータでは、小規模循環農業こそがもっとも投入と産出のバランスがいいということがわかってきている 。有機農業の生産力が低いのではなく、やり方の問題だったのだ 。有機農業はもはや奇特な篤農家の道楽を超えて、地球規模の課題となった。

流通も然り。生産者が市場の動向のわかる範囲で、生産流通させることをめざしたい。特に農業ではそれが可能なはずだ。カンボジアのシェムリアップ県で、FAOが支援している小規模農家の話にこんなものがあった 。「あるとき、乾期に三尺ササゲを栽培したところ、ホテルからの注文があり、大変儲かったが、それを見て同様に三尺ササゲを他の農家も栽培するようになったため、価格が下落した。」何と言うことのない話だが筆者には示唆に富む内容だった。価格が下落すれば別のものを作ればいいわけで、農家のコミュニティーを作って互いに知恵を出し合って生産調整をすることができる。意味もわからず大企業や手の届かない遠い世界市場に振り回されるのではなく、自らの市場の動向を見極め、栽培計画を立て、成功も失敗も自分たちで負える範囲の生産と流通をめざせば、グローバリゼーションに振り回されない強い独自の道が開けてくるのではないだろうか。

ネットワーク
いずれのケースでも巨大な設備や投資はいらない。すべてローカルで小さな設備だ。SETIなどに至っては、回線を介してボランティアのパソコンを借りて行うため、投資と言えば、プログラムを書くことくらいだ。投資は従来の巨大プロジェクトとは比べものにならないくらい小さいが、それでいて、実効性に遜色はない 。共通して言えることは、小さいが高い技術を持った集団をネットワークでつなぐことにより、巨大な産業で実現していたことと同等の内容を達成し、さらに小回りの良さや時代の変革への対応の素早さ、環境負荷の圧倒的な軽減などを現実のものとすることができるということである。
日本は中小企業、零細農業が生産を動かしてきた。それらは高度成長、バブルの経済の中で見過ごされ、さらに世紀末に始まる長期の不況の中で息も絶え絶えになっているが、小規模な事業をインターネットなどの技術を利用してネットワークとしてつなげていけば、これまで大企業がなしえなかった効率と質の高い生産性を実現できるものと期待される。この点はさらなる掘り下げと検証が必要となるだろう。
巨大組織に支配され、人間性を剥奪された分業の時代は終わり、個々人の意志により巨大プロジェクトに参加し、それに貢献することで一つの成果を作り上げる、いわばネットワーク分業の時代が到来したといえる。

ヒューマンスケールソサイエティーの実現

上記現象を別の視点から見る。前世紀から、人類は快適さと効率の実現をめざし、巨大設備を構築し、その運営に追われるようになった。そして、個々の人間の手に負えない巨大な組織の中で人間はその一部品と成り下がってしまった。その代償として手に入れた快適な生活も、環境への負荷の大きさにより、今まさに崩壊の危機に立たされている。はたして、人類は快適な生活を手に入れるに、身の丈に合った規模の生活を捨てる必要があったのだろうか。上記で検証したように、多数の小規模な生産をネットワークでつなぎ、大規模なプロジェクトが従来以上の効率で実現可能であることがわかっている。ならば、われわれは肥大化したシステムに依存してきた社会を去り、身の丈に合った、いわばヒューマンスケールの開発をめざすことはできないだろうか。

国際協力の場において、巨大プロジェクトのODAが批判にさらされる一方、NGOの実施している小規模なミクロの開発が注目されているのは、まさにこのヒューマンスケールの開発に取り組んでいるからである。このような開発の最大の特徴は取りこぼしが少ないことにある。大きな津波でまとめて沿岸をさらうのではなく、いわば、波を読んでうまく波に乗るサーフィンだ。

同様に、国内社会の諸問題に取り組んでいるNPOの活動が注目されるのもその規模が人間の手に負える程度のものだからである。行政の展開する政策は最大公約数をめざすからどうしてそこからはずれた人間が出てくる。また、巨大な行政組織を支えるために巨大な支出が必要となってくる。そうしたしくみの穴を埋めてきたのがNPOであり、NGOであった。

われわれが真にめざすべきは巨大な組織作りではなく、個々の人間の能力が最大に発揮でき、皆が自己実現のできるヒューマンスケールの社会なのである。


U.リーダーシップは力ではなく、思想の正しさで

政治もヒューマンスケールをめざすべきである。日本には強力なリーダーシップがないと嘆く論調がよく聞かれるが、すべての人にある程度の教育があり、ある程度自己の考えを持ち、ある程度能力を持つ中、はたして1人のカリスマティックな存在がすべての人を一つの方向に引っ張っていくことができるだろうか。いや、引っ張っていく必要があるだろうか。

日本人は、誰が先頭に立って引っ張っているわけでもないのに、一つの方向に向いて突っ走る不思議な民族である。第二次大戦中でさえ日本はヒットラーのような強烈な個性が国の方向を決め、国民が否応なしについていくというパターンではなかった。天皇はいたが、天皇が実際に戦争を指揮したわけではない。軍部が突っ走ったと言うが、誰か1人の軍人が国を引っ張ったかというと、そのような人物を特定することは難しい 。

日本ほど均一性をいわれる一方、多様性を実現した社会はない。多様性を実現しながらなおかつ日本人には顔がないと言われるように、一つの顔をしている。脱個性と悪い面ばかり取りざたされるが、多様性は選択の自由の実現、均一性は方向性の一致と見ることができる。イデオロギーがないとも言えるが、それは、ある意味、イデオロギーなどを用いて人民を一つの方向に向かせる必要がなかったからとも言える。

これは、日本が世界でもまれに見る高い教育水準を実現したことに理由の一端を見出すことができる 。日本の教育には多くの問題があり、それは別途論じる必要があるものの、途上国の開発に携わっている身から見ると、日本はその教育において驚異的な成功を成し遂げていると言える 。すべての人が当たり前のように文字を読み書きし、計算が出来、合理的なものの考え方ができる。問題点は多々あるものの、日本は世界的に見てもまれな教育の成功例である。先進国の間でさえ、日本ほど教育で成功している国はない。

それは現在では弊害ばかりが指摘される平等主義がある時期その役割を果たした成果であろう。日本は歴史的に見て身分制社会ではあったものの、その中で世界の他の社会では見られない平等性があった。日本人はすべて先祖を共有する、一つの民であることに由因するかどうかはさらに探求する必要があるが、DNAの分類とは別に、日本人は一つの民であり続けてきた。内戦を百年続けていても、その間に万里の長城も出来なければ、街を囲む城壁も建設されることはなかった。日本の錠前技術は西洋や大陸アジアのものと比べると稚拙この上なかった。これは大陸やヨーロッパにおいては決してみられなかった現象である。

このような日本であれば、強力なリーダーシップなど必要ないのではなかろうか。ある考えが同時多発的に言われ、それが急速に国民の間に広がり、国を挙げてその方向に突っ走るのは日本で典型的に見られるパターンだ。いいも悪いもこれが日本という国のやり方なのかもしれない。われわれは力の強さではなく、思想の正しさ――正しさといって語弊があるなら 、思想の魅力――によって動いてきたようだ。それは、今日の日本でもじゅうぶんに当てはまることで、あるいは胸のすくような強烈なリーダーシップを発揮できる人は現れないかもしれないが、魅力のある思想を提示することによって目に見えない多数の力が国を一つの方向に動かしていくというのが日本のあり方ではないだろうか。


V.多元多極の世界へ 〜テンセグリティー社会

ここにテンセグリティーTensegrityというバックミンスター・フラーBuckminster Fullerの造語がある 。これはtensional (張力)integrity(完全無欠)を縮めた言葉である。重量のある物質を支え、水平の力に対抗することのできる最小の構造体で、圧力と張力を使うがトルク(ねじりモーメント)の起きないものを言う。「テンセグリティーは押す力と引っぱる力の双方が勝利する、いわば、win-win関係の構造である。引っぱる力は連続して起き、押す力は不連続的に起きる。連続的な引っぱる力は不連続の押す力によりバランスを得、完全なる張力と圧力統合が実現される 。フラーはこうして張力と圧力の組み合わせを有効に使い,自立した構造体を初めてつくった。テンセグリティーは建築で応用されるのはもちろんのこと、生命体にその姿を見ることができる。もっともわかりやすい例が人体の骨格と筋肉の関係である。「206個の骨がバラバラにならず垂直に立って安定しているのは、筋肉や腱、靭帯による張力があるからだ。これらの張力を、圧縮力に耐える骨が受け止め、全体として複雑なテンセグリティー構造を作って体を支えている。 」テンセグリティーの考え方は近年人体の解明においても注目されている。

テンセグリティーにより作られた構造体は外からの支持がなくても自立保持することができるということ、また、この構造において張力と圧力が絶妙のバランスを保たれていること、そして中心はどこにもなく、かつ、すべての棒は交わることがないこと、ここにテンセグリティーの合理性がある。力が一点に集中せず、互いに直接接することはないが見えない糸(=意図)で互いがつながっておりそのつながりが絶妙のバランスを呈している状況を創り出す、最小限の資源で最大の効果を引き出すというまことに魅力のある構造だ。

筆者は21世紀以降の世界のモデルをこのテンセグリティーに見る。一国の支配する「グローバリゼーション」からすべての国がそれぞれ独自の文化をはぐくみ、政治を営みながら共生する多元的多極世界である。人類が皆それぞれの活動を展開しても互いにつながりを持ち、交流しつつ自立している。これこそが本来のグローバリゼーションであったはずだ。

ただ、問題はある。テンセグリティーを実現するのためには、その構成要素がテンションに耐えうるものである必要がある。現在の世界において、すべての人間のキャパシティーが一定のレベルに達しているとは言い難い。いまだに、非識字人口は世界で8億7700万人に達し 、8億4,200万人が栄養不足 、11億の人間が貧困線以下の生活をしている 。筆者の提唱する多元的テンセグリティー社会はすべての人間のキャパシティーが一定のレベルに達していなければ成立しない。そのため、特に第三世界の開発、就中、教育の普及が急がれるが、MDGsで示した識字の達成目標 さえ相当に困難と見られている。

 しかし、そう言っていては理想が萎えてしまう。理想というものは達成可能のものでなければ意味がないが、必ず高いものでなければならない。まずは日本がその例を示してはどうだろうか。日本は、人類史上まれに見る教育の普及のため、テンセグリティー社会を実現する前提条件である「均等のエレメント」がそろっている珍しい国だ。このような日本であればこそ、理想の未来社会のモデルを世界に提示できるのではないだろうか。そして、それこそが、日本のめざすべきリーダーシップの形であろう。


W.日本は何をなすべきか

このようなヒューマンスケールのテンセグリティー社会、身の丈に合った多元的な平衡自立型の社会をめざすにあたり、具体的に日本はどういう形でそのリーダーシップを発揮するべきだろうか。ここにヒューマンスケールソサイエティーを形成するための提言をまとめる。各論はそれぞれ深く考察する必要のあるものばかりであるが、それは別の機会に譲るとして、ここでは概要を論じるにとどめる。

1) 一極集中の解消
 基本的には、政治、経済、産業、文化のあらゆる局面において、一極集中を解消する方向に努力をすることに尽きる。

 地方分権を推進し、地方がそれぞれ独自の発展を遂げられるよう応援する。豊かな地方文化の復権に努め、魅力ある地域社会をめざす。首都移転などといった単純な考え方ではなく、日本全国に中心があり、それぞれが独自の活動を展開できるよう規制を緩和し、同時に地方に権限を委譲し、責任負担を求める。実際に江戸時代はそうであったはずだ。

 また、巨大開発プロジェクトはすべて再考し、小さな事業を積極的に支援する。先にも述べたように、分散された未利用の資源をネットワークでつなげば大きな設備も、一カ所に人を集める必要もない。

2) 巨大官僚組織の縮小
 現在ある中央、地方の巨大官僚組織はすべて縮小する。民ができることはすべて民に任せる。NPO・NGO等民間の活動を後押しし、官はできるだけ一歩引いたところで見守る姿勢を貫くことが肝要だ。お上の指導が必要だったのは、教育のレベルも低く、物事を考えることも、ましてや実行することもできなかった無力な民の多かった時代である。日本ほど教育が成功した国において、お上の指導はもはや邪魔にしかならない。筆者は決して無政府主義者ではないが、政府などの要らない社会は理想的な社会には違いない。
 そこまで人々を放置すると無秩序が出現しはしないかとの懸念はたしかにある。しかし、ここまで成熟した社会においては、それにふさわしい道徳律の形成が必要になる。耳順を超えて不踰矩 をめざして然るべきである。人間の性悪論を支持する人々にはとうてい受け入れられない考えだろうが、性悪説を取る限り、人類に22世紀はあり得ない。地球環境は断崖絶壁まで追い込まれており、これ以上の利己主義を放置すれば人類に未来はない。かといって、個々人、あるいは個々の国の能力が高くなっている今、強力な力で秩序を維持しようとすると、逆にテロなどゲリラ戦術による抵抗が多発し、秩序どころでなくなることは今の世界を見れば明らかである 。人間本来の権利、就中そのもっとも尊重されるべき自由という権利を正しく発揮させるには秩序が必要であることを人類は本能的に知っている 。長い目で見れば、人間は全体として驚くほど正しい判断をするものである。テンセグリティー社会においてはこの自由と秩序のバランスも自然の状態において実現される。

3) 個人、地方の能力開発
 すでに論じたように、個人や地方の能力をさらに開発することがここで提示するシステムの成否に関わってくる。高い能力を持つ個別の機能を分散させ、それをネットワークでつなぐことによって従来では実現し得なかった力を生み出すわけであるから、構成要素の能力が高ければ高いほどいい結果が生まれる。

 この意味において、途上国、とりわけLDCすなわち最貧国の開発は重要課題である。能力が著しく劣る国が多ければ多元的価値観に支えられる世界は実現しえな。テンセグリティーにおいてすべての構成要素は一定のテンションに耐えうる力を持たなければならないからである。世界の不均衡は日本をはじめとする先進国にとって大きな脅威になる。日本は積極的に途上国の開発を援助し、MDGsの目標達成に貢献するべきである。
 
4) ネットワークインフラの整備
 とりわけインターネット、通信網を国の隅々に行き渡らせ、地方と都市の格差を少なくとも情報面で解消するよう努力する。多元社会が実現可能の射程内に入ったのはインターネットをはじめとする通信網の発達によるところが大きい。個々の構成要素をつなぐネットワークがなければ、個々の力は活かされず、20世紀の巨大インフラの時代に逆戻りしなければならなくなる。地球環境の破壊が極限に達している今、当然、逆行は選択肢にない。

 情報の公開、共有はどんな強力な軍隊もなしえないほどの力で社会に変革をもたらすだろう。ソビエト連邦が誰もが予測できなかった速さで崩壊したのは、情報の公開すなわちグラスノチの力であることを思い起こしたい。さまざまな情報に人々が一時的に惑うこともあろうが、結局は落ち着くべきところに落ち着くだろう。「すべての人を一時的にだますことはできる。一部の人をいつまでもだましておくこともできる。しかし、すべての人をいつまでもだまし続けることはできない 」とはまことに真理をついた名言である。

5) 新世紀の社会モデルの世界への提示
 日本という国の中で生きていると気の遠くなるほど多くの問題を抱えている国に見えるが、世界、とりわけ途上国に出てみると、日本の社会こそが理想の社会にさえ思えてくることが多い。それほど日本はさまざまな局面において人類のめざしてきたものを実現している国なのである。身分差、経済格差、教育レベルの差などはほとんどないと言ってもいいだろう。そのような社会なればこそ、世界に対して新世紀の社会モデルを提示できるのではないだろうか。筆者が本稿において述べたヒューマンスケールのテンセグリティー社会を世界に先駆けて構築し、その方向性の正しさ、魅力において新世紀の秩序を示すことでリーダーシップを発揮したい。国連の常任理事国になることばかりがリーダーシップではあるまい。強大な力で世界を支配する時代は終わった 。日本はむしろ強大な力を蓄えないことによって世界をリードしていくことのできる国であり、いち早くそのことを認識し、それをめざすべきである。

*   *   *

かくのごとく、小さな力を結集して一つの大きな結果を生み、力を分散させ、マクロからミクロへの回帰を、あるいはヒューマンスケールの社会を提唱すると、どうしても無秩序の危険と隣り合わせになりはしないかとの懸念が生まれる。しかし、直接接することのない多数の構成要素を張力のバランスでつなぐとき、自然の秩序が生まれる。

問題だらけの現状を見ると誰もが暗くなる。問題解決を手がけようとすると、苦しみの甘受が前提となることが多い。問題は無数にあり、すべてに目を向けていては気が遠くなるばかりで前進を実感できない。ところが逆に、無数の問題の中で一つだけ「いいところ」を見出し、それを伸ばすことに専念してみると、その過程で思いがけなく問題が自然に解決していることをわれわれは知らなければならない。人が関与するとき、どうしても問題解決に目を向けがちであるが、自然に任せたとき、能力開発に向かうことが多い。

マクロの視点を見失いさえしなければ無数のミクロの活動が大きな波を創り出すことができる。ここでもリーダーシップは必要ない。自然の動きに任せることでもっとも適切な解決が導き出されるだろう。

このようなテンセグリティー的秩序においては敗者というものは存在しない。勝者さえ存在しない。なぜならば、すべての構成要素が互いに押し合い引き合いしながら秩序を形成しているからである。

(了)

2004.9.27

注釈を含めた全文(PDF113KB)



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