SamSara

《ミンドロレポートその7》




民族の想像

川で出会ったマンニャンの人々

windmill

灰色の記憶

 あと数日で21世紀である。

 子どものころを想い出した。小学生のとき、地元尼崎市を横断する名神高速道路の高架下の公園に数名のルンペンが生活していた。いつも同じ服装で家も無く、公園のベンチを寝床にする彼らを私は友人とともによくからかった。お菓子の食べかすやみかんの皮を投げつけて、隠れて彼らの反応を伺うという行為が流行った。ある友人は彼らが集めてきた生活用品に火をつけ、これは学校でも大きな問題となった。

 歳を経るごとにそういう行為に関心がなくなり、これらのことは当時の単なる"遊び"として記憶の隅にと追いやられていった。しかし、フィリピンに"ボランティア"という名目でやって来て、その埃をかぶっていた記憶は私の人生の"灰色の記憶"として急に表層化し、私が生きる上での価値基準とする思考の根底にしっかりとへばりついているということに気付かされた。

物乞い

 ビザの延長等の理由でしばしば首都マニラに行く。見渡せば開発途上国といえども都心部には高層ビルが立ち並び、豪勢に着飾った人々や高級車もひっきりなしに走る。が、それら発展の賜物が造る物影で、時々出会う人々は"時々"という高い頻度で物乞いである。老若男女問わず、時には盲目、片足の無い人など身体障害者までもが排気ガスに埋もれた道路と同色になりながら道行く人々に微銭を請う。通りすがりの私は彼らが何故、現在この様な境遇にいるのか知らない。ゆえに彼らに対してどう対応していいのか解らない。結局見て見ぬふりをして通り過ぎるのだが、なんとなく気分が悪い。いずれこの悪い気分の源を突き止めたいのだが、都市部の貧困の原因はあまりに複雑な要因が絡まっているようで、今はまだ回答の糸口さえみつかっていない。

 ミンドロ島にも物乞いは存在する。西ミンドロ州南部に位置するサンホセにいる物乞いのほとんどは、男は下は褌、女は籐で編んだ紐を腰に何重にも巻き付け、上はそれぞれ洗濯の経験がないのではないかと思われるシャツ、もしくは裸である。身長は低く、髪の毛は縮れている人が多い。いわゆるマンニャン族である。

 サンホセの物乞いとマニラのそれと違う点は、一見して判断できる範囲における境遇の明確性・不明確性の違いであるといえる。マニラの場合は先述したように不明確である。サンホセの場合は彼らがマンニャン族という境遇にいるという点において明確である(もちろん彼らは少数派であり、大多数のマンニャン族は物乞いなどせず自立して生活している)。

海の向こうからやってきた「もの」

 サンホセにおける物乞いとそれ以外の人々との関係は、ミンドロ島社会のもっとも危険な現代病だと私は思う。想像するに、かつてミンドロ島にマンニャン族しかいなかった時代(それほど昔ではない)には、人が人に物を乞うという光景は無かったのではないだろうか。もちろん、その時代において彼らは誰に劣等感を感じる必要もなく、誰に見下されることも無く、彼ら独特のゆっくりした時間感覚で物を考え、身体を動かし、その日必要な食べ物を探し歩きながら生きればよかった。

 しかしながら時勢は彼らの生活に普遍性を与えず、現代においてそれは激流のごとく彼らそのものを飲み込もうとしている。海を渡って見知らぬ言語(タガログ語)を話す人々がやってきて、マンニャン族の狩猟採集の源である密林を切り開いて道を作り、脇に家を建て、"農業"という植物を育てて食を得るという方法を行う。また、彼らと一緒に渡ってきたバイクやジープがかつてミンドロ島に存在しなかったどす黒い気体を放ちながら馬よりも速く走る。こういう出来事が過去数十年において、しかも外部の人種によって一気にミンドロ島に押し寄せた。走るデッカイ鉄の固まりを大人になってはじめて見たマンニャン族の人は目ん玉が飛び出る程びっくりしたに違いない。

 また、海からやってきた人々はいろんな力を持っていた、技術力、知力、権力、暴力などなど。その力の差は圧倒的であり、彼らとの利益分配に関する話すら及びつかないくらいの存在であっただろう。強烈な驚きは後に恐怖に代わり、人によっては諦めを悟った者もいて、その結果が物乞いという姿として具体化された、と想像できる。

 サンホセで物乞いを見たときに私の最も強く感じたところは、人間は日々を過ごす上で不規則に生じる時勢の波を予期し、そのための速やかな対策というものを怠ったとき、とんでもない結果を招く可能性を持つということだった。

時勢の波

 サンホセから100キロほど北上した我々の事業地であるサンタクルス周辺には私の知る限りにおいて物乞い自体が存在しない。サンホセほど経済規模が大きくないまちで時勢の流れもさほど急激ではなく、徹底的な貧富の格差というのはいまだ生じにくいからかもしれない。が、サンタクルス周辺がマンニャン族に住みやすい町であるとは言い切ることはできない。

 例えば、我々の援助対象地域であるカラミンタオ村は元来の山林での採集生活を行いながらも時勢の波に合わせて徐々に農地開拓を行い、トウモロコシや米を植えはじめている。極微少ではあるがそれら収穫物を町へ持っていき、金銭を得ることもある。貨幣経済原理に乗っかり、新しい社会作りに励むことは素晴らしいことであるが、問題はその金銭の使い方である。やっと手に入れたお金を彼らはよく酒に費やす。フィリピンに来て身をもって学んだことだが、酒には"呑み方"というものがあり、それを誤ると暴力へと発展するらしい。ミンドロ島の人々は多分に呑むと暴力に走る人が多く、カラミンタオ村民も例外ではない。更に時勢の波にやっと乗れるかどうかの瀬戸際にいる村民の精神状態というものは非常に不安定なようで、そのフラストレーションのやり場を無理矢理見つけるために酒を用いて暴力に訴える。

 やっと得たお金が藻屑と消えるどころか、暴力によって村に険悪な雰囲気が生まれる。それはもちろん子どもにも影響を及ぼし、カラミンタオ村から来ている奨学生にも親の暴力が心に陰を落としている子どもが何人かいる。

 貨幣を得るだけで経済原理に乗り得たとはいえない。手に入れた貨幣がいかほどであれ、いかに効率的に使い得るかが重要である。カラミンタオ村のマンニャン族にはサンホセのマンニャン族の外面的問題とは対照的な、内面的問題が時勢の波との不完全な関係の結果としてべっとりとはびこっている。内面に潜む分、一言で言えば、複雑に絡み合った糸のように難問である。

米を作れ、木を育てよ、人を教えよ  

 どういう人か忘れたが、エチーニ・ベルテという人の、

"医療で間違えることは、一つの命を危うくすることである。
  政治での間違いは、一世代の人々を危うくすることである。
   文化と教育での間違いは、数世代の人々を危うくするのである。
    もし、あなたが一年間の計画を立てるならば、米を作れ。
     もし、あなたが十年間の計画を立てるならば、木を育てよ。
      もし、あなたが一世代の計画を立てるなら、人々を教えよ。"

 という言葉がある。私の人生は私のみで決めることは出来ず、様々な人々との出会い、経験、学習の過程で自在に変化していくと予想される。もし、これからも今歩んでいる様な道を辿るとするならば、少なくとも上の言葉のようないく段階かに計画を立て、ゆっくりとかつ確実な人生を歩みたい。そしてそれがうまくいったと実感でき、それをマンニャン族の皆さんと共に喜びあうことが出来れば一層幸いである。更に言えば、その瞬間にさっき言った彼らが内面に抱く複雑な難問もさほど難問ではなくなるような気がする。

 あと100年と数日で22世紀である。私は、22世紀がそれなりに良い世界になるためにどうやって今ある絡み合った糸を解きほぐそうかとゆっくりと想像しはじめる。


windmill

2000年12月


21世紀協会ボランティアスタッフ
紫垣伸也
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