21CA

インターネット版 《サンサーラ》

SamSara

選択の自由


lunch 自問

 事業を展開する中、ふと立ち止まるときがあります。今進めているこの事業が、果たして本当に人々のためになるのだろうかと考え込んでしまいます。たしかに、日本には教育を受けられない子供はまずいない。しかし、つめ込み教育の中、子供たちは幸せなのだろうか。日本では産業は発達し、人々は飢えることがなくなった。しかし、これが私たちの求めていた幸福だったのだろうか、と。奨学金事業は8年目を迎え、のべ、80人あまりの奨学生が奨学金を得て通学を実現しました。しかし、特にミンドロの学生を中心に、環境不適合を起こすものが相次ぎました。田舎町のハイスクールに通学することさえ苦痛のようです。まず、小学校でろくな教育を受けていないため、ハイスクールの授業についていけません。その上、習慣も文化も違いすぎます。時間の観念も、所有の概念も持ち合わせないため、学校生活にはなじめません。寮生の中には、鉛筆や教科書はもちろんのこと、制服さえなくしてしまう者も珍しくありません。ものを大切にしなければならないと言っても理解できません。自然のままの自由な子らをそのままにしてあげられなかったのだろうかと自問することしばしばです。


飢えからの解放

 また、農業のことがあります。農業が成功したとき、これまで身分差のない平等な助け合いの社会が崩れます。自然破壊も進みます。やさしくて善良な人々、美しい山々、澄んだ空気、そういったものが失われてしまうのだとしたら、私たちはいったい何をしてきたのでしょう。それが私たちの夢見てきた飢えのない平和な社会なのでしょうか。しかし、飢えからの解放は人間の絶対的な要求です。人類5万年の歴史の中で、一部の国とはいえ、飢えから解放されたのは、せいぜい、ここ50年のことです。飢えのない日本から、今、現に飢えて子どもを死なせている人々に対して、よい人間関係や美しい自然が失われるから開発をやめよ、と言うのは、何と傲慢なことでしょう。良くも悪くも、わたしたちには、飢えた人々にはない、選択の自由があります。私たちは今一度、認識し直しましょう。世界の半分は飢えているのだと。


そして、教育。
classroom
 私たちがなぜ、食料や物資を送る道ではなく、教育を普及させる道を選んだのか、その原点に立ち戻りたいと思います。飢えた第三世界の人々を救うのは、豊かな国にいる私たちではなく、その国の人々自身です。私たちは、第三世界の人々が自分で考え、自分の道を選ぶことのできる力を養う手伝いをしようと、貧しくて教育を受けられなかった子供たちに教育を受ける機会を提供してきました。飢えているときは、腹を満たすしか道はありません。腹は満ちても、知識がなければ知識や力のある他人の示した道を行くことしかできません。身体と精神の飢えが満たされたとき、はじめて、目前に多くの道がひらけてくるのです。自然の恵みを取り尽くしてしまうのも、自然と共存しつつ満たされる道を探るのも、あるいは、隣人と助け合って生きるのも、互いに破壊し合う道を選ぶのも、自由です。教育はそう言った選択の自由への道なのです。(池田晶子)

《サンサーラ》 18号 1997.12.10初掲



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