SamSara



国金さつきの
《ミンドロレポートその22》



違いの中で生きる

子どもたちの健康チェック

寛容ならいいのか?

 夏休みに入り、寮には我々日本人スタッフの他、高校を卒業したマンニャン奨学生の女の子ばかり4人がいます。彼女たちは今、寮でスタッフの手伝いなどをしながら次の進路に備えています。この少人数での生活がはじまってしばし、随分とストレスがたまっている自分に気がつきました。いつものように騒々しくなく、空間的にも時間的にも余裕ができているはずなのに、何だか妙に気を揉んでいらいらしているのです。どうしてか。それは一年の中でも特殊な、少人数で暮らすこの時期、最も双方の「違い」が際立つからです。普段よりもさらに近づく機会が増えその一挙一動が大きく影響しあいます。些細なことと分かっていながらも、違いによるふとした何気ない行為に相変わらずやきもきしてしまいます。彼女たちのこれまで生きてきた山の暮らしを知ってそういうものだと寛容になって理解したつもりでも、閉め忘れた砂糖のケースに集っている真っ黒のありの大群を目にしたときはやっぱり不快に感じてしまいます。違いが際立つこの時期、その違いを面白いと感じ楽しめることができるものなら良いですが、不快なこともしばしばあります。私の側の寛容さが足りないのはもちろんですが、寛容になればそれで終わりでしょうか?

右半身の不自由な女の子

 この3月に卒業を迎えたばかりの奨学生の一人に右半身が使えない女の子がいます。現在15歳の彼女は10歳のときにコンクリートの上で転倒したのをきっかけに右半身が麻痺し使えなくなりました。しばらくは歩くことも出来ず、記憶障害を起こし家族のことも言葉も皆全て忘れてしまい、まるで赤ん坊のようだったと言います。その後学校には行きたいという本人の強い意志から、21世紀協会の奨学生として親元を離れサンタクルスの高校に入学しましたが、当時のこともあまりはっきり記憶には残っておらず、意識がはっきりして確かに覚えているのはこの2年くらいのことだと言いますから、本当によく卒業できたと奇蹟のようにすら思えます。彼女は真面目で誰もが認める努力家です。他の子どもが遊んでいる中でも一人家の裏手で復習の暗記をしたり宿題をしたり、学校へ通っているときは他の誰よりも早く起きて水浴びをし仕度に取り掛かっていました。人の二倍も三倍も時間がかかる分、もくもくとひたすら取り組む彼女の姿勢には感心させられます。片手では洗濯も、体を洗うのも、靴の紐を結ぶのもままなりません。それでも通常は周りの奨学生が手伝うなどして助かっていましたが、皆村へ帰ってしまった今、自分のことは全て自分でせざるを得ない状況になり、何よりもそれを本人が最もすばやく感じ取ったようです。身の回りのこと以外に、市場へ買い物にも行くと自分から言い出しました。普通に歩いてせいぜい10分ほどの距離ですが、右足を引きずって歩く彼女はこれまで食材の買出しに行くことはありませんでした。学校のあらゆる行事にも全くといっていい程参加しなかった彼女です。人前に出る機会を避けがちな彼女のこれまでにない行動に驚かされてしまいました。甘えがちであった性格を払拭するように、実家にもほとんど帰らず、今まで「彼女はしない」と本人も周りも暗黙のうちに決めていたことを自分から積極的にやりだしたのには、彼女の新しい挑戦の意志がありありと見て取れます。彼女は確かに変わろうとしています。

違いを認め合うだけでは足りない

  事実ハンディキャップを負っている少数民族の彼女にとって、職を見つけ生計を成していくのは非常に難しいことです。本来は彼女にこそそれで食べていける技術なり才能なりが必要ですが、我々に今すぐそれを提供できる策は整っていません。今後協会が彼ら卒業生の雇用先となることも一つの案となり得るでしょう。と同時に、彼女の持つ違いがそれそのままで認められ活かされる場の形成が必要だと感じます。我々はそれぞれに個性があって向き不向きがあって好き嫌いがあって長所も短所も持ち合わせています。そうした違いをそのままで良しとするコミュニティの存在が欠かせません。違いを受け入れてお互いに認め合うとは、頭で解っているように簡単にはいきません。よく人との付き合い方で、違いが例え納得いかないようなものであっても、それはその人だからとあきらめて接するのが大人だと聞きます。しかしそれは楽な方に流しているだけ、根本的には相手の何をも認めていないということにならないでしょうか。無論、無邪気に自分の価値観だけを押し付けて違いを理解しようとしないのは無思慮な幼稚な態度です。違うという事実を相手の立場にたってみて同情して何も言えなくなることも違うような気がします。ありのままの現実を直視し深い理解のもと、それで結局のところどうなのだ、ともう一歩踏み込んで本音を言い合うのが真の付き合い方です。違いというものがある、その理由も理解した、そして私はこう考える。あなたはどうだ?と、相手を深く理解した上で自分の意思を表明し、その次を共に探っていくことが本当に相手を認めたということではないでしょうか。この方が何倍も大人の思慮深さと子どもの純粋さとパワーが必要です。そしてこの働きかけによって成り立つのが、それぞれの個性が許されそれぞれが活き活きと生きるコミュニティなのです。誰しも生きていくのにはこうした場が不可欠です。まずはそのコミュニティを彼らの最も身近な場、村からはじめ、我々協会もまた彼等にとってそのような場でありたいと考えます。とすれば、コミュニティの一員である私は違いに黙ってしまうのではなく、そして私はこうだとその都度自分を表現していかなくてはいけないのだと気付きます。身勝手な感情の押し付けでなく、遠慮による感情の押し殺しでなく、本音ですっきりした付き合いによってのみ、相手と自分を真に受け入れることができるのだと、自分をまだ認めることのできていないコンプレックスを抱えた私はそう信じます。


windmill

2002年5月


21世紀協会ボランティアスタッフ
国金さつき
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