SamSara

佐賀弘の

《ミンドロレポートその34》




開発とマンニャン奨学生




windmill

貧富の二極化

 戦後、日本は長く続いた高度成長・安定成長のおかげで国民生活は豊かになった。その一方で、世界では貧困に苦しむ人々が増え続けている。貧富の二極化は進んでいる。また環境破壊も急速に進み非常に深刻な問題になっている。

 現在、日本経済は低迷しているにもかかわらず、私たち日本人の生活は決して貧しいとは言えない。不況によって倒産する企業や解雇される人々が増えても、それによって飢えに苦しみ生命の危険に脅かされる人はほとんどいない。それは日本という国そのものが豊かな先進国であるからである。私たちは日本に生まれたため、当たり前のように十分な食べ物を与えられ、当たり前のように教育を受けている。そういった豊かな環境にいる私たちは、どの程度世界の貧困を認識しているだろうか。「世界のどこかで貧困に苦しむ人々がいる。それは常に存在するものである。」貧困を避けられないものとして受け入れ、納得している。もしくは、貧困を自分たちとは全く関係ない問題として無視しているかもしれない。すべての先進国の人々がこのどちらかの考え方をしているにちがいない。一方で、途上国において貧困に苦しむ人々もその状況から逃れたいと願いつつも、その現実を避けられないものとして受け入れている。そして、先進国の人々がどれほど豊かな生活をしているか、少しも知らないし、考えたこともないかもしれない。

リバゴンの小学校で

開発における教育

 この貧富の二極化の進行を避けられないものとして受け入れ諦めるのか、それとも立ち向かうのか。もし、それを諦めるなら開発は必要なくなる。立ち向かうのなら、その進行を防ぐための1つの手段として教育が挙げられる。開発における教育というと堅苦しく難しい気がするが、協会のマンニャン奨学生を通してそれを考えてみる。

 "貧しい国の子どもたちは、勉強したくてたまらないのに、教育を受けることができない"とよくテレビのドキュメンタリー番組で報道されいる。私は、幼い頃学校に通い勉強することは当たり前のことで、それは半ば義務のようなものと思ってきた。ほんの一時期、おもしろいと感じたこともあったが、正直自分から進んで勉強したいとは思わなかった。そんな自分もあり、"勉強したい"という子どもたちが遠いどこかの国にいることは驚きだった。もちろん、私の周りにも勉強好きの友達はいたが、それはどちらかと言えば少数派であった。とにかく、"途上国のすべての子どもたちは勉強できることを願っている"と信じていた。もちろん、マンニャン奨学生もそのテレビで見た子どもたちと同じように勉強することを心から望んでいるはずである。単純に、「勉強したいのに貧しいから学校に行けない」ということにちがいない。それならば、「できる限りのことをして学校に行ってもらいたい」と思い、私はここ21世紀協会サンタクルス事務所に来ることを希望した。もちろん、それだけではなかったが、それが1つの大きな動機であったことに間違いはない。

 現実は、違っていた。

勉強する動機

 マンニャン奨学生は、「家族のために将来役立ちたい。自分の村のために何かしたい。」そう願って学校に通うことを希望する。また、当時の幼い頃の私と同じように「きっと勉強したほうがいいから」くらいにしか思っていない子どもも事実多い。(もちろん、中には熱心に勉強する奨学生もいる。)加えて、この協会の奨学生として集団生活することをそれなりに心地良く感じていて、楽しいから協会に居続けたいと願う子どももいる。理解できないわけではないが、テレビの報道とこの現地の現実はあまりにも違い、半ば驚き半ば失望した。それは、私の正直な気持ちである。その後で、幼い頃の私に近いものを感じた。

 子どもが最初から勉強をおもしろいと感じることは極稀なことである。勉強をしたこともない子どもがどうやって勉強に興味を持つことができるのか。教師にしろ,親にしろ、大人がそれをうまく指導しなければならない。貧しい子どもすべてが、勉強したいと願っている?それは嘘である。しかし、出来得るならすべての子どもに勉強のおもしろさを知る機会があれば素晴らしい。

 私たちは学校に通いたい子ども、勉強をしたい子どもだけを奨学生とするのではなく、何が理由であってもこの協会の奨学生となった子どもたちに対し、勉強のおもしろさを知るところまで導くことが仕事である。興味を持ったときにその知識を吸収するスピードは上がる。しかし、興味がなければ何も頭に入らないだろうし、それは苦痛に感じるだけである。

 マンニャン奨学生に対し学習指導するとき、どこか強引に指導してしまう。理解するまで徹底的に教える。繰り返し、繰り返し。ようやく理解し正しい解答を出す。それはそれで良いが、最後まで強引さがあってはならない。それは本当の意味で子どもたちが勉強ができるようになったわけではない。子どもたちが興味を持ち、自分でもっと知りたいと思ったとき、その指導が成功したと言える。

 開発においても、それと同じようなことが言える。もし、勉強嫌いの子どもたちに指導することを諦め、勉強のできる子どもだけを協会の奨学生とするなら、それは途上国・貧しい地域における開発を諦め、先進諸国だけの世界を作り上げることと同じである。ようやく芽を出した若芽が、すぐ傍の大木にその栄養をすべて吸い取られ死んでしまう。自然界では当然ながら弱肉強食である。しかし、それが先進国と途上国の間にあってはならない。少なくとも開発の現場において弱い者に強制することがあってはならない。あくまでその先へ進むきっかけを作る。

 このように、私たちのマンニャン奨学生に対する指導と途上国に対する開発とは規模の違いが大きいにしても、重ねて考えることができる。今まで奨学生に対して行ってきた学習指導についてもう一度考え直し、その背後にある開発というものも頭に入れながら、日々の指導を反映させることが今の私には必要である。私たちの理想を押し付けるのではなく、彼ら自身で道を選び、彼ら自身で前へ進むための"きっかけ作り"、それが私たちがやるべきことである。それが、開発、マンニャン奨学生の指導に対する現在の私の答えである。


windmill

2004年2月


21世紀協会ボランティアスタッフ
佐賀 弘

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