Philippines

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フィリピン共和国

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歴史 目次へ

 7000年ほど前に大陸から分離し、フィリピンの島々が形成された。紀元前15000年から500年頃にかけて新しく人類が島々に移り住み、青銅器の道具を使い高度な水田技術を広めていった。紀元前300年から16世紀にかけてマレー人が移り住むようになる。マレー人は様々な技術を持ち込み、海上貿易も始めると同時にイスラム教を持ち込んだ。また、15世紀には中国の支配もうけた。

 1521年、マゼランが世界一周探検の途上、マクタン島に上陸してスペインの領土であることを宣言する。マクタン島首長のラプラプはこれに抵抗し、マゼランと戦いマゼランはここで戦死する。しかしながらマゼランをきっかけにスペインは次々と遠征軍を送り込み、1571年レガスピがルソン島中南部を支配していたスレイマンを破り、マニラをフィリピンの首都に定めた。フィリピンという国名は1543年のスペイン遠征軍が当時のスペイン皇太子フェリペの名にちなんでラス・フェリペと命名したのに由来する。

 1860年代に入ると、スペインからの独立を目指す運動が活発になり、その解放運動の先頭に立ったのがホセ・リサールである。リサールは逮捕され1896年12月30日、銃殺刑に処せられるが、これが運動に火をつけることになる。同年8月、無産階級、下層知識階級の指導者、アンドレス・ボニファシオは、秘密結社カティプナンを組織し、武装蜂起を開始した。しかしながらボニファシオは内部対立からエミリオ・アギナルドによって銃殺される。その後アギナルドは1898年6月12日に独立を宣言する。

 同時期、アメリカ・スペイン戦争があり、フィリピンはアメリカ領となる。アメリカ政府は国内の反発もあり、自主統治の方針をとった。1934年アメリカは独立の約束をし、翌年独立準備政府であるフィリピン連邦政府が発足し、ケソンが初代大統領となる。  しかし、1941年日本軍の進駐が始まり、対日協力政府であるラウレル政権が作られ、それに対してオスメニアによる亡命政府も作られた。1944年、アメリカ群がレイテ島に上陸し、1945年にマッカーサーによるフィリピン開放宣言がなされた。1946年7月4日にロハス初代大統領のもとフィリピン共和国が誕生する。

 1965年にマルコスが大統領につく。独立はしたが温存された地主制度とアメリカへの従属に国民の不満が高まり、戒厳令を布いて鎮圧に務めた。1983年反政府運動のリーダー的存在であったベニグノ・アキノが暗殺され、政情不安が高まり、1986年2月の無血革命によってマルコスは追放され、コラソン・アキノが大統領になった。6年間の任期中、支持基盤の弱さ、何度かのクーデター未遂事件、度重なる自然災害によって期待に応えることなく終わり、ラモス大統領に政権を引き継いだ。1998年6月より、「大衆と貧困者のためのエラップ(エストラダ氏のニックネーム)」をキャッチフレーズとする、現在のエストラダ大統領が政権を保っている。



風土 目次へ

 フィリピン共和国は、西太平洋上に浮かぶ約7000の島々からなっている。これらの島嶼群は北緯4度23分から21度25分、東経116度から126度30分の間にある。国土の総面積は約30万平方キロである。最大の島はルソン島10万4687平方キロで、その次がミンダナオ島9万4630平方キロ、ミンドロ島は9736平方キロで7番目に大きな島である。フィリピン諸島の基本的な地形は造山運動によって形成され、かつては台湾と共にアジア大陸と陸続きであったとされている。フィリピン諸島は環太平洋造山帯が通過しており、造山運動は現在も続いている。

 岩石には火山岩やサンゴ石灰岩のほか、ほとんどすべての種類の岩石が見られる。狭く途切れがちな海岸平野が多く、おおきな河川はほとんど北方に流れていること、火山起源の湖の多いことなどが特徴である。

 複雑な海岸線を持つフィリピン諸島は湾の数も多く、国際港として有名なマニラ湾など、総計282の湾があり、そのうち大小あわせて165が港として利用されている。

 気候は地形の多様性から必ずしも一様ではないが、大まかに7月から10月が雨季、12月から5月までが乾季、6月と11月の気候は変わりやすいといえる。

 西太平洋上に発生する台風はフィリピンの東ないし南東からフィリピン諸島を襲い、ついで北に方向を変える。台風による被害は大部分が豪雨によるもので、土砂の流失や洪水によって家屋や作物に損害をもたらし、人命が失われることも少なくない。

 熱帯に属するため気温は平均して高く、低地での地域差は少なく、27度前後であるが、高度差による温度差は著しい。

 フィリピンの自然環境における最大の問題は山林伐採による森林破壊である。輸出用の木材の伐採と共に、伝統的な焼畑農耕による山野の伐採がこの原因とされている。フィリピンは元来火山地帯のため、伐採を受けた山野は激しい侵食を受けて荒廃するか、質の悪い草地となってしまう。人口増と共に焼畑農耕の経験を持たない低地民の進出によって、森林保護は一層困難になっている。

 フィリピンには、金、銅、鉄、マンガン、クローム、石炭などほとんどの鉱物資源が埋蔵されている。鉱山は主として北ルソン山地にあり、鉄鋼は南ルソン等でも採掘されている。



民族・宗教 目次へ

 フィリピンの諸民族は言語、文化、人種的に極めて複雑な構成を持っている。これは過去数千年、数万年の間に中国南部、インドシナ半島、インドネシアなどを経由して系統の異なる民族がフィリピンに移住し、幾重にも重なった文化層を形成したためである。諸民族を分類すると言語的には134のグループに分けられ、宗教的には伝統的な土着の宗教・儀礼を信じる民族、イスラム教徒、キリスト教徒の3種に区分することができる。

 宗教に関して、フィリピンに最初に伝えられた世界宗教は14世紀後半以降、南部を中心に普及したイスラム教である。その後、300年あまりのスペイン統治時代に、山地人とイスラム教徒を除いた低地民のほとんどの間にキリスト教の信仰と儀礼が浸透していった。これら2つの外来世界宗教は、一般的にそれぞれ従来の精霊信仰を退けることなく、それと融合してフィリピン独自の宗教形態へと変化していった。現在、イスラム教徒は約4%、キリスト教系の信徒が約93%、その他仏教徒は中国系のフィリピン人で約0.1%、残りの約3%が土着宗教の信者となっている。土着宗教の信者とは山岳地帯に分布し、伝統的な精霊信仰(アニミズム)を維持している、いわゆる山岳少数民族をいう。外来世界宗教がまだフィリピンに移植されていなかった時代には、フィリピン全土の住民たちの宗教は精霊信仰に基づいていたと考えられる。



現代教育制度 目次へ

 フィリピンの教育制度は初等、中等、高等教育からなり、ほとんどが2学期制である。初等教育は6歳から6年間の義務教育である。小学校の数は全国で約3万6000校(1994年現在)で、ほとんどが公立である。一応、90%以上が就学しているといわれている。学費は無料だが、衣服、交通費、昼食代などは自己負担となること、英語とフィリピノ語という2言語政策が児童の負担になることなどから中途退学者は多いという。初等教育では飛び級も認められている。

 中等教育は12歳から4年間で、ハイスクール、または中等職業学校で行われる。学校数はおよそ6000校(1994年現在)で、私立が公立を上回る。約60%近くが就学しているといわれている。社会、体育、保健、音楽はフィリピノ語で、英語、理科、数学、技術・家庭、工学は英語で授業が行われている。

 高等教育は16歳からで大学と中等後教育機関(専門学校)で行われる。修了年限は専攻により異なり、医学部が9年、法学部が8年、獣医学部が6年、工学・薬学部が5年、その他は4年である。1996年現在、大学は1181校(950校)、中等後教育機関は1276校(私立985校)。在学率は30%近くある。1994年から全国中等教育達成度テストの成績で選抜されるようになっているが、国立フィリピン大学(UP)など一部の大学では独自のテストを行っているところもある。大学の授業料は一般的にその学期に取る単位数によって決まり、国立フィリピン大学が一番安く、1単位300ペソ前後である。また、私立のデ・ラ・サール大学は3学期制をとり、一学期1万5000ペソ(1996年)である。(以上の就学率、在学率については、フィリピンに国勢調査がないことから正確さはあまり期待できない。)

 また、フィリピンは女性の地位や教育水準の高さでも東南アジア随一といわれ、女性は教員数でも男性を上回り、国家公務員にも女性が多く、女性管理者も多いのが特徴である。



フィリピンと日本 目次へ

 二つの国は共に海に囲まれた島国であり、総面積は北海道を除いた日本の面積に匹敵し、共に自然に恵まれているが、台風、火山、地震などの自然災害の多い国でもあり、また共に多人口を抱える(フィリピン人口は1996年の政府推計で約7200万人、現在も増加している)。更にいえば、共にアジアにありながら欧米に顔を向けて来た。共に対東側への戦略拠点としてアメリカの影響下にあった。そして最近はアジアの急速な進展とソ連崩壊に伴うアメリカの戦略転換の中で、共に急ぎアジアに顔を向け直している。

 共に海に囲まれているが、この海は全く異なる役割を担った。日本の海は壁となって外国の侵入を防ぐとともに、交流を拒む役割を果たし、フィリピンの海は水路となり、道となって外国からの自由な出入りを許し、交流を促す役割を果たした。

 両国の交流の歴史は、鎖国が始まるまでのルソン交易、明治維新から太平洋戦争、そして最近の日本企業進出とNGOを含めた国際協力、大きくはこの3つの時期に区分けすることができる。戦国時代から安土・桃山時代、江戸時代に鎖国によって国を閉じるまで日本は、スペインが作り上げた、フィリピンを世界交易路の要としたルートの一端に加わってフィリピンとの関係を持った。明治維新による開国とともに多くの日本人が世界各地へ生活の糧を求めて移民として移住していった。日本からフィリピンへの移民は1903年ルソン島での道路建設のために1000人の若者が移住したことに始まり、その後マニラ麻の栽培を目的にミンダナオ島への移民がすすめられ、太平洋戦争直前にはダバオで2万人以上のアジア最大の日本人町が作られた。

 そして日本は、フィリピンを太平洋戦争に巻き込んでいく。日本軍は1941年12月開戦とともにダバオに上陸し、翌年マニラに侵攻、フィリピン全土を制圧する。フィリピンは日本による戦禍の最大被害国の一つである。

 1945年の終戦後、両国の交流は日本からの企業進出と経済協力、国際援助の時期を迎え、現在にいたる。また、日本のODAにとって、フィリピンは最大援助対象国の一つであり、フィリピンにとって日本は最大の援助国である。1996年3月末で、無償資金協力の累積総額が4000億円近く、有償資金協力の累積総額が1兆5000億円を超すほどになっている。しかしながら最近は、高い援助額の割にはその資金をうまく活用できていない、という批判を市民団体やNGO等から受けている。



フィリピンの未来と日本の関係 目次へ

 アメリカが戦前フィリピンの宗主国であったことから、フィリピンの外交は戦後一貫して対米関係を機軸として推進されてきた。しかしながら、1992年11月の在比米軍の全面撤退を契機とするいわゆる比米特殊関係の消滅、近年におけるアメリカの力の相対的低下などを背景にASEANの一員としての認識を新たにしつつ、ASEAN、東アジアを中心とするアジア・太平洋地域との関係を重視する外交を展開するようになっている。ラモス政権以降、国内の政治的安定と経済再建を最大の課題としているフィリピン政府は、これらの課題に迅速かつ有効に対処していくためには、経済・経済協力部門を中心とする対日外交を重視する政策を推進している。

 日比関係は、近年拡大傾向にあり、とりわけ対日関係を重視するアキノ政権の誕生(1986年2月)以降、貿易・投資、経済協力、文化交流、NGOなどの人道的国際支援の増進、要人往来の活発化などを通じ、年々緊密化の一途を辿っており、総じて良好に推移しているといえる。アジア・太平洋地域は、民族や、宗教、文化の多様性と、開放性をもとに近年ダイナミックな経済発展を遂げ、世界でも最も見通しが明るい地域となっており、またそれがゆえに21世紀はアジア・太平洋の時代といわれている。この地域で枢要な地位を占めている日本とフィリピンは、今後とも地理的近接性、及び産業構造の相互補完性などを背景に、相互依存関係、平和的共存関係、またその結果として関係の更なる緊密化を強める一方、アジア・太平洋時代の牽引役として協力関係を深めていくものと思われ、それを推進していくことがこれからの我々の使命と考える。



参考文献;

『もっと知りたいフィリピン』(綾部恒雄/永積昭 編・弘文堂)

『フィリピンから日本がよく見える〜世界ネットワークの中の二つの国〜』
(横井俊夫/横井雅子 著・明石書店)

『フィリピンと日本〜交流500年の軌跡〜』(佐藤虎男 著・サイマル出版会)


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