21世紀の教育を考える



(NPO)21世紀協会 理事長
池田晶子

《論旨》

 教育とは、人の生存を保証するセイフティーネットであり、自己実現を可能とする選択の自由を広げるものである。現代の日本において、選択の自由は著しく広がり、さまざまな価値が林立することが許された優しい社会が出現したように見える。ところが、実のところ、選択の自由は諸刃の剣であることにわれわれは気づかなければならない。一方、社会の価値体系は完全に崩れ、おとなたちは子どもたちに見せる背中を失ってしまった。崩壊した価値体系を再構築する努力を怠ったおとなたちが子どもたちに提供できるものはなく、そのため子どもたちは多すぎる選択肢の中で呆然とし、自分自身を見失っている。おとなたちは考える苦しみや価値観のぶつかり合う軋轢を避けて築いた快適な毎日の中で、考えることをやめてしまったことこそが、問題の根源であると考える。
 そんなことを、教育をまったく受けられない人々の社会と教育が行き過ぎたといわれている日本の社会を対比して考察を進める。

 価値体系の崩壊と再構築のもがき
  〜何でもありの社会は何もない社会だ〜

【本文】

 今、若者がおかしくなっているという。幼い顔をした子供たちがさしたる理由もなく殺人を犯し、そこまで行かないにしても、学校は荒れ、授業が成立しなくなっている。成人式での珍事は記憶に新しい。いったい若者はどうなっているのだろうと誰もが首をかしげる。

 しかし、おかしいのは何も若者ばかりではない。授業参観では親の私語がうるさく、授業もままならない。卒業式、入学式でも親の落ち着きのなさは恥ずかしい限りである。若者がおかしくなっていることばかりが話題になるが、親の世代の問題を見過ごしてきてはいないだろうか。教師の質の低下も、連日メディアで話題となっている。

 教育の現場は今荒廃しているように見える。

 筆者は21世紀協会というNGOの代表を務めている。過去14年間、教育の機会のないまま現代社会と遭遇してしまった少数民族の子どもたちとともに歩み、その教育に力を注いできた。成人識字率はほぼ0%、乳幼児死亡率70%、マラリア罹患率100%、結核罹患率90%(注:21世紀協会調査)といった状況の中、低地多数派民族に蹂躙され、文化もろとも滅亡の危機に立っている。こういう社会を見ていると、教育の果たす役割がよく見えてくる。教育が「ありすぎる」日本を、この「教育の全くない」世界から眺めると、見えるものがある。ここでは、この民族の立場から教育が人類に果たしてきた役割を見渡し、そこから、今の日本をはじめとする先進国が何を誤っているのかを見て行きたい。

《教育の「ありすぎる」日本?》

 日本は「教育がありすぎる」と言ったが、この場合の「教育」とは学校教育、そして、習い事や塾などの校外教育のことである。そういった知識・技術の提供としての「教育」なら日本の子どもはいくらでも享受できる。学校で望む学力をつけることができなければ学習塾に通えばいい、泳ぎを習いたければスイミングスクールに入ればいい、ピアノが弾きたければ、ピアノの先生につくといい。今の日本で、そういった教育機関に不足はない。

 ところが、教育を次世代の人間に社会のルールを教えること、人間としてのしつけと考える力を身につける場と考えると、もしかして、日本はとんでもなく教育の貧しい国になってきているのではないかと懸念する。親も教師も、子どもを本当の意味で叱ることがなくなってきている。叱らないまでも、自身の生き方を突きつけることで子どもを導くような教育はさらに希薄になっている。

 知識や技術の過剰な提供を受ける一方、その中から自分自身に必要なものを選ぶための精神的鍛錬ができていないため、教育が暴力として働き、凶暴化した「教育」に子どもたちが押しつぶされているというのが若者を「異変」へと走らせていると筆者は見る。

《セイフティーネットとしての教育》

 ミンドロの少数民族は、学校教育というものをまったく受けていないので、知識の伝授も社会のルールを教えるのも親や周辺のおとなである。字も書けず、数字もわからない人々だが、人間性は豊かであるなどというありきたりのことは言うまい。実に賢明な人々であり、子どもに対する愛情も豊かで、自然の中で生きる術は心得ていることはたしかだ。筆者などは足を取られてなかなか一人で渡れない川を簡単に渡ってしまう。マッチがなくても火を熾せる。しかし、フィリピンの片隅にある島の道もない山奥の村にさえ、グローバリゼーションの波は押し寄せ、森林の破壊は進み、もはや、彼らの素朴な生活は成立しなくなっている。彼らが生き残るには、知識や技術の習得としての教育を身につけるしかない。それができないと、教育のある人々に土地をだまし取られ、格安の労働力として使われ、医療サービスも受けられずに、いつの間にか多数民族に吸収され、その最下層に押し込まれることになる。実際、今、それにかなり近い事態が起きている。

 自己のアイデンティティーや生活を守り、他者に蹂躙されないで生きるために教育は絶対に必要なものである。まちがって空中ブランコから落ちても受け止めてくれ、命を守ってくれるのが教育のもっとも基本的な役割であったはずだ。けれども、いつしかそのセイフティーネットは凶暴化して人間を襲うようになった。

《選択の自由》

 教育を受けていないフィリピンの少数民族の子どもの場合、選択の範囲は非常に狭い。さまざまな可能性があることすら知らない。食べるものも限られ、着るものにもバライエティーがない。ましてや、職業選択の自由などあり得ない話だ。選ぶことのできる道は限られ、自己実現の方途も制限される。教育を受けることで、知識を得、知識を得ることでより広い地平から世界を見渡し、自己実現をすることができるようになる。さらに、より大きな絵から判断する力を養うのが教育だ。その中で自己、あるいは自己の属する集団のために最良の選択をすること。個人にとっては自己実現、集団にとっては未来の構築の可能性がより高い次元で実現できる。

 日本では、いつの頃からか、保護者会などで、親が「子どもの選ぶ道を尊重したい」「のびのびと自由に子どもを育てたい」「いろいろな考え方があるから」と連発するようになっていた。これ自体は多様性の尊重として、非常に結構なことだ。親もまた、自分たちの親にあれこれ押しつけられて窮屈だった思い出があって、自分の子どもにはそういう思いはさせまいと思っているのだろう。

 ただ、ここに見落とされている問題がある。それは、親も教師も、子ども自身も、自由というものの重さに気づいていないことだ。何でもありということは、実は、何をしていいのかわからないということにも通じることを知っているだろうか。実際、今、子どもたちは可能性の多さに呆然としているのだ。

 また、「いろいろな考え方があるから」何でもいいのだ、という前に、自分の考え方を追究したことがあるだろうか。自分自身、確たる考えもないところに、さまざまな考え方が嵐のように押し寄せた場合、何をどう選べばいいのだろうか。自分たちとは違った価値観、違った仕組みの中で生きている人々を理解し、共に生きようという意志を育てるのは教育の重要な使命だ。しかし、他の考え方を尊重することと、自分の意見や考え方を主張することは矛盾するものではない。それどころか、一本筋の通った考え方を持っていない人間に果たして他人の考えや価値観を本当の意味で理解し、尊重することができるのだろうか。

《価値体系の崩壊》

 優しい社会、と人は言うかもしれない。しかし、それは視点を変えると、自分自身の芯がなく、軋轢を避けたいため、他人とも自分自身とも深く関わろうとしない、「人間に無関心な社会」と言える。自分の考えや価値観を求めるのは苦しいことだ。また、他人との関わりの中でどうしても波風が立ってしまう。そういう苦しさをわれわれは避けてきてはいないだろうか。

 何でもありの社会はよりどころのない社会であり、実は、強者が生き生きする社会である。選択の自由を最大に活かし、自己実現を強力に推し進めることのできる者にはこれ以上ないすばらしい世界である。しかし、その陰で、弱者は切り捨てられ、いや、自分で自分を切り捨て、己を見失っている。一見優しいと見えた社会が、実は、強者のみに優しい社会であったことにそろそろ気づいてもいい頃ではないだろうか。「いろいろな考え方があっていい」という表面的な優しさの陰で、どんな考え方も養ってこなかったおとなたちの怠慢は罪深い。

 社会が病んでいるわけではない。子どもたちは多すぎる選択肢を前に狼狽しているだけである。そして、おとなは子どもに土台となる価値観を提供できずにいる。本来、子どもは親に押しつけられた価値観をあるいは受け入れ、あるいは反発する中で人格を形成し、自身の価値観を形作っていくものであるが、何でもありの社会で、出発点を見いだせずにいる。そんな中でしっかりと自分の出発点を見つけ、自分を形成できる子だけが生き残れるようになっている。一見優しい社会が、実は、敗者の行き場をなくし、追いつめていたのだ。苦しさから逃れようとする子どもたちが、「選択の自由」の広がった中、非行、犯罪に走り、あるいは、社会との接点を拒否して引きこもったり不登校を「選択」したりしても不思議ではない。子どもたちはあえいでいるのだ。うまくやっているおとなたちとの違いは、苦しさを自覚できるかどうかという点だけである。おとなたちは苦しさを自覚できず、また、自分に問題があることさえも知らず、「いろいろな考え方があるから」と逃げている。

《新しい価値体系が見えない》

 20世紀の黄昏とともに、旧世界の価値体系は崩れ去ってしまった。科学はそれを生み出し育ててきた人間自身の予測をはるかに超えてまるで生き物のように急速に成長していった。社会は科学の発展に追いつけず、鬱々としながらもがいている。「何でもあり」の社会が出現したのは、われわれが価値体系の崩壊に気づいたからとも言える。しかし、一方にその価値体系の崩壊に気づきながら、新たな価値体系を生み出す苦しみを避けているわれわれがある。  社会と教育の高度な発展の中、若者はありすぎる選択肢だけを提供され、それを選択するための知恵を親からも教師からも社会からも伝授されず、自分で知恵を身につけるにしてもどこから出発していいのかわからないといったよるべない立場に置かれている。

 急激な社会変革の中で価値体系を失ったわれわれが仮に頼ったのが「お金とサイエンス」である。科学と経済が社会をここまで発展させたのだから、ある意味当然といえる。しかし、科学も経済も所詮人間の道具にすぎない。二者とも本来は人間社会のためにあるものであって、人間が科学や経済に奉仕するものではない。われわれは科学や経済を発展させることに熱心だったが、人間はその発展にふさわしい精神的発達を遂げただろうか。理性の発展こそが科学を出現させたのに、われわれ人類、ことに日本人は人倫や理性を発展させることにあまりに怠慢すぎた。そのため、金でも科学でも解決できないものに対してわれわれは無惨なほど無力となってしまった。今や、高度に発達した科学や経済を人類は扱いかねている。

 なぜ人類は理性をよりどころとすることをやめたのだろうか。せっかく近代西洋哲学が築き育てた理性、そして、東洋が古来見据えてきた「個を超えるもの」が簡単に科学と経済によって捨てられてしまった。科学は理性より生まれながら理性を捨てることで成長し、そして、理性の歯止めをなくした科学は今や人類とそのすみかである地球を破滅に追いやろうとしている。

《多機能性》

 フィリピンのミンドロ島の少数民族は、まるで歴史の教科書に出てくる原始人の生活そのままである。都会に住む日本人から見ると不便この上ない生活をし、不衛生な環境の中で多産多死、常に何らかの疾病を持っている。しかし、ここの生活を見ていると、日本人、いや先進国をはじめとする地球人類が利便性を追求する中で見失い、そのため地球環境を危うくしているものが見えることがある。

 ミンドロへの交通は大変不便であり、そのため物資がなかなか島に入ってこない。一般人でさえ豊かにモノを入手できないところで、山奥に隠れ住んでいて金銭らしきものをほとんど持っていないマンニャン族が便利な物資を手にすることができるはずもない。それでも、米を調理し食べなければならないのはわれわれと同じである。彼らの食事の支度は、まず脱穀してある籾殻のついたままの米を精米することから始まる。トントンと米を搗くこと約20分、搗き上がった米を箕でふるって殻やぬかを除き、その後米を洗って鍋で炊く。

 ここでマンニャン版の「箕」注目してみよう。これは、米をふるう道具であるだけでなく、畑で野菜を収穫するときの入れ物であり、炊きあがったご飯を食べるための食器であり、さらには犬もこの器でえさを食べる。雨が降れば傘に早変わり、赤ん坊を上に置いて寝かせていたこともある。

 日本も昔はそうだった。一つの道具を極限まで使い回していた。それは人類の知恵なのである。一つの道具が多くの機能を果たし、一人の人間も多くの役割をこなす。こうした人類の知恵が先進国ほど失われている。人類は多くの道具を創り出すことで生活は便利になり、長寿と繁栄を実現したが、同時に考える力を失っていった。いや、考える必要がなくなったのだ。専用の機能を持った非常に効率的な道具に囲まれ、人間も機能を特化することで、あれこれ煩わされずに一つの仕事を追求できるようになった。

 こうした仕組みは社会の末端の家庭にまで浸透した。父親は仕事、母親は家事、子育てはもっぱら母親の仕事となった。両親がそろっていながら、父親が不在の家庭が子どもをゆがめたことを社会は見過ごしてきた。仕事人としての機能しか果たさない父親と、自分の子どもを育てることしかしようとしない母親は子どもの健全な成長にとって有害である。人間は多くの機能を果たすことができるのに、科学の発展により手に入れた長寿をただただ一つの機能を果たすことにしか使わない。たしかに効率的かもしれないが、人間はこうした仕組みの中に組み込まれたとき、頭を使わないようになり、視野は狭くなり、大きな機械の一部品に成り下がった。文明人の足の指が退化しつつあるのと同じように、脳の考えるための機能も退化するようになるかもしれない。

《21世紀の価値観の創出》 

 選択肢が少ないとき、人間は一生懸命考えて少ない選択肢の中で工夫をして自己実現を果たしてきた。また、モノが少なかったとき、人間は一つのモノを工夫してさまざまに使ってきた。選択肢が多くなったとき、工夫しなくても、考えなくても、日常生活には困らなくなった。しかし、考えることをやめた人間の精神は荒廃し、社会の変化を敏感に感じ取った若者は荒れるようになった。それが現実である。行き場を失った若者たちは、考えることを放棄した人類の末路を投影しているのではないだろうか。

 ここではもちろん、人類に原始生活に戻れといっているわけではない。すべての便利な道具を捨ててしまえなどと言うつもりはもちろんない。文明も科学も人類の営々たる努力の結晶であり、子孫に残したい貴重な遺産なのである。ここでわれわれがしなければならないのは祖先が築き上げてきた遺産を使いこなす智慧を子らに伝えることだ。人類が築き上げた科学技術にふさわしい知力を養い、理性を備えた考える人となることだ。われわれは今一度苦しみつつも新世紀の価値体系を築き上げる努力をしなければならない。すべてのおとなが己の理性を立て直し、脳みその再活性化から手をつけてはどうだろうか。若者の問題はおとなの問題であり、問題の根源を放置したままの解決はあり得ない。小手先の学校改革ではすまされない深刻な現状が目の前にある。われわれは考える苦しみを受け入れよう、他者と対決する勇気を持とう、子どもたちが見るにふさわしい後ろ姿を身につけよう。その先にこそ、本当の優しい社会が見えてくるはずだ。



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